死との距離感
2008.06.03
カテゴリー:医療関係

昨日発表しましたが、Next Doctorsでは、診療関連死報告義務化、という厚生労働省の試案に対してアンケートを実施しました。そのレポートを眺めながら、私たち医師と患者さん、根本的にどこが違うのだろう?と考えていました。

私たち医師もある時は患者の立場になるし、患者の立場になった時に、私も医療従事者に対し不信感を持ちながら診療を受けるのだろうか?と思ったのです。(もちろん、全ての患者さんが、という意味ではありません)

自分は、幸い今のところ死に直結する体験はありませんが、一昨年、叔父を亡くしましたのでその時のことが頭に浮かびました。叔父は元々肺が悪く、今度は心臓も患い、最後は寝たきりになって亡くなりました。最後に見た足がすごく細くなっていたことを思い出します。私の兄も医師ですので、説明してもらった内容を検討し、現在の治療方針で良いか?叔父は苦しんでいないか?相談しながら通院しました。

この時に、主治医の先生に対して不信感があったのか?

答えはNOです。

もちろん、高齢ですし、ある意味「最後は苦しまなければ・・・」という気持ちがあって積極的な治療を望んでいなかったこと、こちら側も医師であることを明かしていたのでコミュニケーションの乖離が無かったこと、は大きいと思います。
そして、全ての治療・検査に私たちが納得していたかといえば、そうではありません。でも、叔父が苦しまず、プロである主治医(チーム)が最善と思うことをしてくれるのならばそれで良い、と思ったのです。

では、上記の例が、自分が医師でなく、患者が例えば幼い子どもだったら、自分は違った対応をするのでしょうか?
もちろん答えはわかりません。

私が感じたのは、医師として生きた数年間を通じ、私は「死との距離感」を近くするトレーニングを受けたのかもしれない、ということです。

多くの医師が体験するのですが、「この人は助からない・・・」と思う人が元気に退院していったり、「この人が・・・?」という人が急変して亡くなってしまったりすることがあります。つまり、医師にとって「生と死」とは比較的距離感が近く、連続性のあるものなのです。

翻って、一般の人々はどうでしょう?自分には小さい頃、祖父が胆石症で最後は黄色くなって実家で亡くなった記憶、母が悲しみながらも、「おじいちゃんに触ってみなさい」と言われ、冷たい遺体に触らされた記憶があります。
核家族化の進んだ現代、実家で身内を看取る、という体験は減ってきているのではないでしょうか?
近年、一般の人々にとって「生」と「死」との連続性が断ち切られ、「死」とは、「悪いもの」「あってはいけないもの」との考え方になってきている印象があります。

当たり前ですが、全ての人は死にます。

距離感のあるもの、自分とは関係がない、と思っていることには準備ができません。
「死」はもちろん遠くにいて欲しいもので、身内に不幸があると、それを受容するための儀式が「葬式」だったのだと思います。それが現代は、「医療ミス探し」になってきている気がして、非常に不幸な現状だと思うのです。

このポストは、「患者側に問題がある」と言っているのではありません。

ほとんどの医師は全ての患者さんに最善を尽くしています。それでもミスをすることはある。その場合にそれを隠蔽してはいけない。これは当たり前な大前提です。

その上で、最善を尽くしたはずの医師・医療従事者の努力を認め、お互いに病魔と闘ったチームとして受け入れて欲しい。それには「死との距離感」「死への覚悟」、というものをもう少し捉えなおして欲しいと考えています。

これもNext Doctorsが扱うべき「情報の乖離」ですね。
問題解決とそれに先立つ情報共有、今後もNext Doctorsの取り組みにご注目下さい。

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